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ESSAY by Machida, about light, oblivion, memory and Hypernatural:
musee vol.25 May. 2000


邦人作曲家シリーズ No.16
「なかから光っている木」 TEXT/町田良夫

「彼女はひどく驚いて、質問にもほとんど答えられない。
木を正面にして言葉もなく立ちつくしている。
その木をつかんでやっと口を開く、なかから光っている木」*1

【光】
数年前、イアン・ウォルトン*2のアトリエで見せてもらった1枚のすばらしい絵。
暗くゴツゴツとしたマチエールの中にうっすらと浮かび上がっている木のシルエットのような ものと金色の短形。「Tree With Light in」。このタイトルは、アニー・ディラード*3の本の 一節から名づけられたものだと彼は語ってくれた。盲目だった人々が手術により目が見えるよ うになって、どんな行動をとったかということが書かれている一節だ。「見ること」と 「光を感じること」についての関係性が彼女の独特な文体で書かれている。納屋のような暗く 無骨なアトリエで、しかも、どれも重く暗い色調の絵画がそれぞれ輝いている中で、この絵も また輝きを発していた。そして、それぞれの絵画の細部は忘れてしまっても、輝きの印象、 感覚はいまだに私の心の中で色褪せない。

【忘却】
一方、なかなか思い出せないものもある。それは私にとっては、漢字だ。小学生の時のこと。 漢字ノートに同じ漢字を10〜20個程度縦に1マスずつ書いていく、漢字書き取り宿題はだれでも 経験があろう。始めは一つずつちゃんと書いていっても、だんだんイヤになってくる。だから こんな風にやってみた。たとえば、【音】という漢字だったら、先に〈立〉だけを全てのマス にうめていく。次に〈日〉を〈立〉の下にうめていく。これは、早かった。漢字の概念や意味 を考えずに、同じ形を絵の様に描いていけばよかった。しかし、できあがったものをみると、 なにやら、奇妙なバランス・・・・・。一応きちんと書いてある行(簡単な漢字)もあれば、 ヘンテコなバランスの行(難しい漢字)もある、全体から見ても極めて奇妙な漢字ノート。 宿題としてのノルマはこなしているものの、こんなやりかたでは記憶としてしっかりと定着 するはずがない。

【巡り合う記憶】
ところがこの奇妙なバランス感覚=記憶は、何年経っても潜在的に自分のモノ創りに反映され てしまうのが、ふしぎである。
さらに、それは様々な場所で巡り合う経験的記憶でもあった。
ここ数年、仕事で東アジアを中心とした国々に何度か訪れ、東京や欧米型の都市生活とは違う  価値観や生活スタイルを肌で感じる機会に恵まれた。混沌としたロケーションでは、当然のこと ながら、なかなかこちらの思うように仕事は進まない。東京→成田→トランジット地→ある途上 国の首都→ルーラル・アリア、そして、またその逆の道のり。3週間から2ヵ月ほどの間に、 移動感覚と共に環境がめまぐるしく変わる。それは、スピード感というより、残像を追いかける 夢のようであり、何が起こっているかを頭で理解するよりも、何も考えずに体で反応していたよ うに思える。そんな環境で、いつも感じるのはあの奇妙なバランス感覚だった。それが内包する ものは、時にはぎこちなく、時にはザックリと、時には唐突に、時にはミニマリズムに、時には 心地よくもあった。この感覚は、何か全体的であり、自分の中にある感覚と共鳴するものでも あった。

【共鳴】
記憶と忘却。「記憶がある」とは言うが、「忘却がある」とは言わない。「記憶」は、なにか 存在するものといったイメージが強く、一方、「忘却」は、現象としてのイメージが強い。 しかし、「記憶」も脳の中に存在するモノではなく、現象や質として感じてもよいのではないだ ろうか。
ルパード・シェルドレイク*4の形態共鳴理論を素直に受け入れるとするならば、脳の中だけでな く、場にも形態共鳴によって記憶が生じる。そして、記憶受信機としての脳は、ラジオのチュー ニングをあわせるようにして共鳴した外部の記憶を受信する。またそれは、距離や時間に関係な く作用するという。この考え方は、彼が東洋文化の中で発見し、自分のフィールドの中で練り直 され、発表されたものだ。彼は、クロスワードパズルを簡単な喩えとしてあげている。 新聞の隅っこに載っているクロスワードパズルは、その新聞が発刊された日よりも翌日のほうが 解き易い、というものだ。全体で見ると、パズルを解いた個人個人の経験が場に蓄積されるがゆ えに、翌日それらの記憶を受信しやすいという解釈だ。この考え方には、直感的にうなずける。 たとえば、日本でも「虫の知らせ」なんかは昔から日常的によく聞く話だ。
そうすると、やはり「記憶」というものは、脳の中だけではなく、いたるところに存在したり、 生じたりするものであり、様々なモノや現象、意志、感情などによって共有される質であると言 える。いままで感じてきたあの奇妙なバランス感覚も、きっといろいろなところで輪廻転生して いることだろう。「忘却」に脅されて物事を記憶すれば、緊張状態は継続するだろう。 「忘却」のリスクを背負っても、記憶を脳の中にため込まなくてもいいんだ、と思えば精神的に リラックスできる。
〔忘却〕「君、こいつキープしとかないでいいの?連れてっちゃうよ」
〔私〕 「どうぞ、御自由に。もう、メモを残してあるので」
〔忘却〕「・・・・・・」
〔記憶〕「僕をすぐ思い出せるように、そのメモを机の上に貼って置いて下さい。     用があれば、すぐ飛んでいきますんで」
〔私〕 「ありがとう。助かるよ」
〔忘却〕「でも・・・・、漢字は書けないより書けたほうがカッコいいとおもいますが・・・」
〔私〕 「* + X & % $ #・・・・・・・」

【ハイパーナチュラル】
また、この考え方は精神的にリラックスできるということだけでなく、もっと別のことに発展 可能である。それは、個人と大きな社会システムとの関係性、さらには自然全体についての捉え 方だ。すべてが自然だというよりは、自然でないものはないのだ。「記憶の共有」や「未知なる ものへの直感的信頼」という考え方は、アニミズム的な統合感覚を示唆する。人間社会において 合理主義の旗の下、細分化、専門家、分析主義がシステムとして定着した。そして、物の見方、 感じ方がますます近視眼的になった今、統合感覚は、偏った感覚に少し混乱を与え、修正し、 些細な物事や現象の背後に潜在する大きな力の流れを見せてくれる。
 少しでも統合感覚があれば、アイディアを思い付いたり、何かを思い出した瞬間、つまり、 記憶の共鳴時に、発光感覚を体験することができる。イアン・ウォルトンの絵画に光を感じたり するのも、それと共鳴する何かが私の中にあるからであろう。
 物事の属性をプロセスとし、関連作用によるハイパーナチュラルな混沌の中に身を委ねてモノ を創るということは、どこかつかみどころがなく、当然、言葉や理論による完全な説明など無意 味となる。しかし、そうすることで、属性から解放された「なかから光っている木」がきらきら と微笑みかけてくれるだろう。
注釈
*1 アニー・ディラード薯・金坂留美子+くぼたのぞみ訳   めるくまーる社『ティンカー・クリークのほとりで』より
*2 1950年イギリス生まれ、画家。イギリス、湖水地方アンブルサイド在住。
*3 1945年アメリカ生まれ、作家。『ティンカー・クリークのほとりで』でピュリッツァー賞受賞。
*4 1942年イギリス生まれ、生物学者。著書に『生命のニューサイエンス』などがある。




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